令和8年9月号は「敬老の日におもう」と題し、親や祖先を敬う心と、次の世代へ良きものを受け渡していく生き方について綴っております。
長雨もようやく落ち着き、伊勢の杜にも涼やかな風が感じられる頃となりました。賑やかだった蝉の声もいつしか遠のき、神宮周辺の田では、早くも稲刈りを終えたところも見られ、季節は少しずつ秋へと歩みを進めているようです。
今年四月より、家業の林業を営む父の手伝いのため、実家の山にも入るようになりました。その契機の一つとなったのが、京都大学総長を務められた平澤興先生の語録『生きよう今日も喜んで』にあった、次の言葉です。
「有名になることは、それ程むつかしいことではない。しかし、本物になることはむつかしい」
本物とは、名や評価を求めるのではなく、神仏を敬い、親や祖先を大切にする心を持って、自らに与えられた役割を精一杯果たしていくことではないかと考えるようになりました。
一本の木が立派な材木になるまでには、六十年、八十年、時には百年以上の歳月を要します。
三十年前、一緒に杉苗を植えていた祖父が、「この木も、これから八十年、百年の旅に出るんやなあ……」と、そっとつぶやいた姿を、今も忘れることができません。その木を伐る日を見ることがなくても、次の世代のために植える──
私はその後、社会教育の道を志し、二十二年間、故郷の山に入る余裕のない日々を過ごし、その間、父は、誰が後を継ぐかも分からない中で山を守り、良い山を次の世代へ残そうと努めてきました。
二宮尊徳翁の教えには、稲を植えることも、山に木を植えることも、ただ今の実りを得るためではなく、次の世代のために徳を植える営みである、という考えがあります。
両親に喜んでもらいたいとの思いから山に入りましたが、親孝行のつもりが、かえって自らが先祖から受け継いだ思いの深さを知る機会となり、感謝の念が深まってまいりました。
社会教育団体・修養団の創立者である蓮沼門三先生は『蓮沼門三全集』の中で「親思う心こそ、あらゆる道徳の根元であり、百行の本となると信ずるのである。親思う孝心の発展が、隣人愛となり、祖国愛となり、人類愛になってゆくものである」と記しています。
また江戸時代の儒学者・中江藤樹先生も『翁問答』の中で「孝は広大で無限の徳である」と述べ、さらに「身を立て人の道を行うのが孝行の綱領である」と説いています。親を思う心とは、自らを正し、人としての道を歩むことともいえます。
以前、恩師の故中山靖雄先生に「本当に大切なのは、ご先祖様から応援していただける自分になることだ」と教えていただきました。親祖先との縦のつながりを大切にすることが、やがて自然な広がりにもつながっていくのだと思います。今日、動画やネットを通して名を広めることに心を向けがちな時代だからこそ、親を敬い、祖先を大切にし、良きものを次の世代へ受け渡していく生き方の大切さを、あらためて問われていると感じます。
今年の敬老の日は、九月二十一日です。
実家の仏壇の前にある日めくりには「日々精進、ご先祖さまに守られて」とあります。今日まで受け継がれてきた歩みに思いをいたし、今を生きる親、また今は亡き方々や祖先に心を寄せ、命をつないでくださった方々への感謝を新たにする敬老の日にしたいものです。
朝夕には秋の気配を感じる頃、どうぞお身体を大切にお過ごしいただきますように──。
