令和8年10月号は「神嘗祭と高田好胤師」と題し、神宮で最も重要なお祭りである神嘗祭に寄せて、毎年十月に伊勢へ参拝された薬師寺元管主・高田好胤師の、神仏を敬う心について綴っております。

古来、豊葦原の瑞穂の国と称えられてきた我が国では稲穂が黄金色に実り、収穫の秋を迎えます。

伊勢の神宮では、十月十五日から十七日、外宮と内宮で神嘗祭の中心となるご祭儀が執り行われました。その年に実った新穀を天照大御神にお供えし、大自然の恵みに感謝を捧げる、神宮で最も重要なお祭りです。両宮のご祭儀を終えた今も、別宮をはじめ各お社ではお祭りが続いています。

神嘗祭は「神宮の正月」ともいわれてきました。昭和天皇は昭和三十年、皇居の稲穂を神宮にお供えになり、次の二首をお詠みになっています。

八束穂やつかほを内外うちとの宮にささげもてはるかにいのる朝すがすがし

わが庭の初穂はつほささげて来こむ年のみのりいのりつ五十鈴いすずの宮に

(昭和天皇御製)

かつて伊勢の神職や神領民は、神嘗祭が終わるまで新米を口にしなかったと伝えられます。まず神様に初穂をお供えするその習わしには、実りへの感謝と大自然を敬う心が息づいています。

神嘗祭を深く敬い、毎年十月に伊勢へ参拝された方に、奈良・薬師寺元管主かんすの高田好胤たかだこういん師がいらっしゃいました。元伊勢市観光協会会長の山中隆雄氏と縁が深く、氏の営む勢乃國屋で食事と講話をされた後、夜の祭儀を奉拝されるのが常でした。

食事時には「山中はん。このお米は新米と違いますやろな。神さんより先に新米食べる訳にはいかんでなあ」とにこやかに話され、神仏を敬う心を親しみやすい語り口でお伝えになっていました。

その好胤師が若い頃に結婚の問題で悩み、親しい方に相談された時のことです。その方から「私は高田さんに是非結婚してもらいたい。結婚して子供をもってその子を育てて、はじめてあなたは多くの人の役に立つ教えを生み出してくれると思う。そして残酷なことだが、もし、その子供さんに死に別れるというようなことがあれば、さらに立派な宗教家となって私たちを救ってくださるだろうと思う」と言われたそうです。

一見、無慈悲にも聞こえる言葉ですが、その奥には冷厳な真理と深い愛情があり、その後の好胤師に少なからぬ影響を与えたことは間違いないでしょう。

修養団創立者の蓮沼門三先生は、著書『道のひかり』の中で「真まことの喜よろこびと実まことの幸さいわいとは、人ひとより出いずるにあらざるなり。物ものより出いずるにあらざるなり。実じつに光ひかりと共ともに神かみより来きたる恩恵めぐみなり」と記し「死しねども朽くちぬ生命せいめいは、誠まことに実まことに神かみを知しり仏ほとけに仕つかえ、その恩寵めぐみによりてのみ与あたえらる」とも述べ、別離の悲しみや苦難の中においても見守り続ける尊い存在があることを伝え続けました。「ただ誇ほこるべきは、神かみを知しり仏ほとけを仰あおぐの一事いちじのみ」という言葉に、強い信仰の心が表れています。

仏教学者の鈴木大拙は、著書『仏教の大意』に「智は悲から出るし、悲は智から出ます」と記しています。智慧と慈悲は結び合うもの。悲しみや苦難を経てこそ人の痛みに寄り添えるのでしょう。

前述の好胤師は幼くして父と死に別れ、薬師寺に預けられて僧侶となられました。「夫婦や親子の真実の対話は、死に別れたその日から始まるものである」という考え方も、神仏に深く帰依きえされるお姿も、ご自身の体験を通して育まれたものなのでしょう。「わしは坊主やけども神さんも大好きなんや」といつも明るく話されていた高田好胤師。その師が心から大切にされ、通い続けられた神嘗祭の意義に思いを新たにし、感謝と祈りの秋にしたいものです。

朝晩、少しずつ冷え込んでまいりました。どうぞお体にご留意くださいますように──。

伊勢便り 令和八年十月号「神嘗祭と高田好胤師」誌面
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